高碕達之助について

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高碕達之助(1885〜1964)

現在の大阪府高槻市に生まれ、水産講習所(現東京海洋大学)に進学。卒業後、缶詰製造会社に就職し、メキシコの太平洋沿岸の水産調査協力スタッフとして派遣される。帰国後、東洋製罐株式会社を設立し、創立20周年を迎えた1938年に缶詰技術者の養成と缶詰技術の研究を目的に東洋罐詰専修学校(現東洋食品工業短期大学)を創設した。

その後、満州重工業開発総裁として1945年8月8日のソ連対日宣戦布告の事態に遭遇、終戦後も満州に残り日本人会会長として帰国できないでいる同胞200万人の帰還交渉を、ソ連、中国共産党や国民党政府と行った。

日本への帰還後、1952年当時の内閣総理大臣・吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁に就任。天竜川の佐久間ダム、只見川の田子倉ダム、庄川の御母衣ダムの事業計画に携わった。

1954年、第一次鳩山内閣経済審議庁(現内閣府)長官。翌年、第二次鳩山内閣経済企画庁長官(現内閣府)を歴任。同年に開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)には日本政府代表として出席し、ネルー首相(インド)やナセル大統領(エジプト)、周恩来首相(中国)などと親交を深めた。

1958年、岸内閣では通商産業大臣・経済企画庁長官・科学技術省長官を兼任。

1962年に日中国交正常化の前に中華人民共和国を訪問し、日中総合貿易(LT貿易)に関する覚書に調印した。

1964年2月24日逝去。その死去に際して、親交の深かった周恩来首相は「このような人物は二度と現われまい」という最大級の賛辞を哀悼の言葉として贈った。

高碕達之助 略歴

1885年(明治18年) 現在の大阪府高槻市に生まれる。
1906年(明治39年) 農商務省水産講習所(現東京海洋大学)を卒業。
1917年(大正 6年) 東洋製罐株式会社を現在の大阪市福島区に設立。
1938年(昭和13年) 東洋罐詰専修学校(現東洋食品工業短期大学)を兵庫県川西市に設立する。
1940年(昭和15年) 満州重工業開発株式会社理事に就任。
1942年(昭和17年) 満州重工業開発株式会社総裁に就任。
1945年(昭和20年) 満州日本人会会長。
1947年(昭和22年) 日本に帰国。
1952年(昭和27年) 電源開発株式会社(J-POWER)総裁就任。
1954年(昭和29年) 第一次鳩山内閣 経済審議庁長官。
1955年(昭和30年) 衆議院議員初当選。経済企画庁長官。
1958年(昭和33年) 第二次岸内閣 通商産業大臣就任。
第2回日ソ漁業交渉政府代表として訪ソ。
1959年(昭和34年) 科学技術庁長官を兼任。
1962年(昭和37年) 第6回日ソ漁業交渉政府代表として訪ソ。
周恩来首相の招きで訪中。紺綬褒章受章。
財団法人 東洋食品研究所を設立。
1963年(昭和38年) 衆議院議員当選(4回目)。
1964年(昭和39年) 2月24日死去(79歳)。
正三位勲一等旭日大綬章。

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